背面キャッチすることが大事なんじゃなくて、
背面キャッチをイメージすることが大事なんだ。
絶え間なく。
posted at 21:06:01
前例なき道を歩いて初めて、前例ができた。
posted at 18:10:34
言葉をイメージの世界に還していく。
posted at 00:24:17
些細な一歩が巨大な一歩であることもある。
posted at 22:50:02
昨日のニュース9で、
大震災に遭いピアノが弾けなくなったピアノ教師の
エピソードが紹介されていた。
大怪我をしたのでも、(たぶん)技術を失ったのでもない。
でも「ほんとうに」弾けなくなっている。
なにが、音楽とその人のあいだを隔ててしまったのだろう。
なにが埋めていくのだろう。
posted at 09:54:42
子どもを通りすぎると、
子どもが眩しく見えるようになる。
若さを通りすぎると、
若さが眩しく見えるようになる。
だんだんと、若さが眩しく見えるようになってきた。
でもなぜか、悪い気はしない。
posted at 17:17:27
変化をつけること,
ちがう文脈のうえにのせてみること,
「動き」をもたせること。
posted at 17:23:40
ちゃぶだいをかこんで,がくもんしたい。
posted at 22:52:48
「ゆっくり,弱く」と,
あともう一つは「おおざっぱに」ということ。
できるだけ大きな動きで全体を掴むことによって,
身体のかかっていたロックをはずしていく。
「ゆっくり,弱く,おおざっぱに」。
そういう感覚で今日は泳いでみた。
posted at 02:53:16
泳げる範囲が拡がれば、
考えられる範囲が拡がる。
泳げる範囲が拡がれば、
楽しめる範囲が拡がる。
posted at 04:15:19
ちゃぶだいみたいな環境が,
いちばん連想が広がりやすいのかもしれない。
そして,いったん広がった連想を,
畳むこともできる。
「大風呂敷」ってそういうもんだよな。
畳めるから自由なんだ。
posted at 04:31:49
ふだん
「わかるわかる」
といっていることにも,
「ちょっとわかる」、から,
「痛みを感じるくらいよくわかる」,まで,
その範囲は幅広い。
その距離感を感じながら,
モノゴトに触れるという姿勢を大切にしたい。
「まったくわからない」
だってひとつの発見だと思う。
posted at 00:07:33
「弱いときとか,苦しい時こそ応援するのがファンだと思う」。
by ottava 清水さん
posted at 19:32:35
「違う」から出発することって,
できそうでなかなかできない。
いつも似通ったものを探して,
それとの関係から意味を求めていこうとする。
でも,じつは
「まったく別のもの」
というところから,
思考をはじめたほうがスリリングなのではあるまいか。
posted at 23:29:03
どんな小さなことにせよ、
成長していると実感できることがあると、
励みになる。
失なっていくものを数えることほど
愚かなことはない。
倒れてから5日目にリハビリを始めた長島監督は、
やっぱりすごいなあ。
posted at 20:56:53
たとえばピアノを弾くとき,
ミスタッチだらけのときだって,
身体の使いかたがうまくいっているときには
進歩している感覚があるし,
ミスなく弾けてもなぞっているだけのときは
違和感が残る。
そういうことがあるんじゃないかなあ。
イチローが一本の凡打から
感覚を掴んだという話を思いだす。
posted at 00:25:36
頭で理解することは言葉,
身体で理解することは感覚。
この二つがつながったときが,
いちばん面白いのだと思うけれど,
そこにはいつもタイムラグがあったり,
渡ることができない橋がある。
この二つを行き来できるような状態を保ちたい。
posted at 01:08:52
『岬そして啓示』
のなかにでてくる「言葉」を
「イメージ」に置き換えて思考したい。
たとえば「言葉の遊戯性」を
「イメージの遊戯性」に。
詩人が言葉によって傾斜していく動きのなかに、
イメージによって傾斜したい。
posted at 18:50:19
自分のなかで意味が見つけられれば、
関わりかたは変わってくる。
意味は与えられるものではない。
自らの力で見つけ出し、
また自らの力で取り戻すものだ。
ぼくは取り戻すことができるだろうか。
posted at 04:39:46
「それを伝えたい相手に,
そのことを徹底して考えてもらう空間をも届けなければならない。
それが「柔らかさ」の秘密なのである。」
(高橋源一郎 110825 朝日 )
posted at 20:53:16
「聴き手はそこに「和音」を聴くこともできるし、
ある一つの楽器のフレーズだけを選択的に聴くこともできる。
この聴き手に与えられている「居住域の広さ」が
聴き手に「ほっとする」感じを与えるのである。」
http://t.co/Ddx0nAK
posted at 20:54:52
「描くということ。
―それはそこに読者を招待することであり,
そのような祭典の場をつくることである。
(中略)読者の想像力がそこに加わることで,
完結するそのような「余地」の残っている場であり,
そのような作業のたのしさが祭典になるのである」
(辻邦生『岬そして啓示』p214より)
posted at 20:59:02
プログラムをつくることはできても、
プレイヤーになることができない。
それが苦しいところだなあ。
気持ちだけはプレイヤーでいよう。
1日一回、「代打、おれ」。
posted at 17:14:21
鋭さの経路を通ることで,
他人ばかりか,自分の思考範囲も狭めている。
それは一方通行の問いかけで,
誰かが入ってくるだけの「余地」がない。
空間を届けるためには,
自分のなかに空間を保持していなければならない。
posted at 22:54:44



