夏目房之介さんの本はこれまでも何冊か読んだことがあった。そのいずれもが,ユーモア溢れる軽妙な文章と,漫画家でもある夏目さん本人による模写とイラストから編まれていて,にやにやしながら読んだことを覚えている。
でも,本書『手塚治虫はどこにいる』はこれまで読んだ本とはまったく違うテイストの本だった。本書には夏目さんがそれまで積み重ねてこられた人生経験のすべてが注ぎ込まれているように思える。語弊を恐れずに言えば,本書は恐ろしいほどに「本気」で描かれた本だ。それだけに,小手先の感想で済ませられるものではなく,これから手塚マンガを開くときには常に立ち返るべき本になるだろう。
本書は手塚治虫が亡くなった3年後の1992年に出版された。手塚治虫が亡くなる1989年までは,夏目さんは手塚論を書くことを考えていなかったという。書きたいことがなかったからではない。あまりに手塚マンガが自分の中に血肉化していたため,恐怖で書き出せなかったのだ。夏目さんは序文に次のように書いている。
「私がものごころついて,マンガに接したときすでに,手塚さんはその世界を完成されていた。それは,世界そのものと同じように当然のように,そこにあった。マンガの好きだった私は,手塚世界をくり返しくり返し,隅から隅まで読んで育った。だから,私の無意識のある部分がそっくりそのまま手塚マンガの枠ぐみになっている」(p9)
幼少の頃より呼吸をするように手塚マンガに接してきた夏目さんにとって,手塚マンガはもはや「無意識の枠組み」になっていた。それを解剖するという行為は,同時に自らのなかに眠っている「無意識の枠組み」が露呈してしまうことでもあり,それが夏目さんに恐怖を覚えさせた。
しかしその恐怖を乗り越えて本書は完成し,結果的に夏目さんにしか描き出せない手塚論になっている。なによりも素晴らしいと思うのは,夏目さんが自らの手塚経験を最後まで棚に上げずに手塚論を展開していること,そして,作品やテーマではなく「描線」と「コマ」に着目していることだ。
夏目さんの手塚経験はまだ戦争が終わって間もない50年代の頃にはじまる。この頃すでに手塚は売れっ子漫画家として活躍しており,夏目さんいわく「すでにみずからの手法の完成期」にあった。ぼくにとって目から鱗だったのは,「手塚の描線は50年代以降,変容してしまった」という夏目さんの指摘だ。このような指摘は,夏目さんのように50年代に手塚マンガにの洗礼を受けた世代でないとできないと思う。夏目さんは,幼少時代に影響を受けた変容以前の描線について次のように述べている。
「僕は今でも手塚の線を模写することで,子どものころのわくわくするような落書き感覚を身体のなかになぞることができるのだが,そのときの線によるなにかの伝達のされかたが,エロティックなほど内面的な感じなのである。とくに初期のアトムなどを模写すると,ほとんど身体的な震えのような,胸騒ぎのようなものを感じる」
初期の手塚マンガのエロティックさは,ぼくも時々感じることがあった。けれど変容以降の手塚マンガ(『ブラックジャック』や『アドルフに告ぐ』など)に既に馴染んでいたぼくの目にとって,それは「わくわくするもの」というよりは,人形っぽくてリアリティに欠けるものに映った。手塚マンガは現代のマンガに比べると極端に線の数が少ないが,なかでも劇画の影響を受ける以前のマンガはほとんど何の躊躇もなく描かれているように見える。それが現代のマンガに慣れた目には物足りなく映ったのかもしれない。
50年代にすでに完成の域に達していた手塚治虫の描線は,なぜ変容せざるをえなかったのだろうか。著者はその外的要因として ①メディアの変化 ②アニメへの傾斜 ③劇画の登場,を挙げている。いずれも重要な要因だが,特に②についての指摘はおもしろい。60年代に入ると本格的な高度成長がはじまり,テレビ時代が到来する。もともとアニメーションをやりたいという熱烈な欲求があった手塚は,すぐにテレビアニメ『鉄腕アトム』の制作に乗り出す。しかしこれが,それまでの手塚の描線を狂わしてしまったと夏目さんは指摘する。
「・・・50年代にはそのすべてをマンガを描くことに集中させていた表現衝動が,アニメを始めたときに分裂してしまった。分裂しただけではなくて,そのアニメが彼の手から離れて商業的に成功した。そして,社会の中で一つの場所を得てしまったとたんに,非手塚的なものとして自分にはね返ってきたのである」
50年代から手塚はすでに売れっ子漫画家として活躍していたとはいえ,雑誌の形態は月刊誌であり,読者もせいぜい数十万単位で,読者像を想像できる範囲だった。しかし60年代に入ると,そうした状況は一変する。雑誌は週刊誌化し,その頃登場したテレビは不特定多数の人々にフラット化した情報を送り続けた。そうした時代の裂け目を経験するなかで,手塚は自らも変容を遂げる。
テレビアニメで成功を収めたのち,手塚治虫は苦難の道を辿る。貸本マンガの世界から登場してきた劇画のターゲットとして<手塚神話>が形成されていく一方で,現役の漫画家としてはトップの座を失い,この頃の原稿料は「Bクラス」であったという。73年には虫プロダクションが倒産,巨額の債務を抱えてマンガ家に専念することになる。しかし手塚治虫はこの苦難を乗り越えて,活躍を続けた。夏目さんは次のように言う。
「手塚の独特さは自分のマンガのひとつ<死>を受け入れて,ある種の引退をしてしまうのではなく,十数年かけて描線すら変え,ついには生き延びてしまったことにある。このこと自体が日本ではまれであり,手塚の評価をむずかしくしており,また神話をうみだすもとにもなっている。」
手塚は劇画の表現様式を時間をかけて消化し,さらに自らの描線を変えていった。そして70年代以降,『きりひと讃歌』『ばるぼら』『『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『シュマリ』などの数々の傑作を世に送り出した。手塚治虫亡き後に手塚マンガに触れたぼくにとっては,70年代以降のものに好きな作品が多い。
ぼくは本書を読んで次のような感想を持った。
手塚治虫は生涯にわたり「メタモルフォーゼ(変容・変態)」を表現衝動とし続けた作家だ。それは彼の作品ばかりでなく,生き方にもいえるのではないだろうか。戦後の激動の時代のなかで,手塚は幾度となくやってくる漫画家人生の危機を,そのたびに描線や作風を変えることで生き延びた。そしてついには第一線で活躍する漫画家のまま生涯を閉じた。その生き方そのものに,ぼくは「メタモルフォーゼ」を感じる。
また,手塚治虫は生前「ぼくはベートーヴェンに似ていると思う」と語っていたそうだ。しかし,本書を読んで,50年代までの手塚の天才性は,ベートーヴェンよりもむしろモーツァルトに近いのではないかと思った。何の迷いもなく描かれたエロティックで流れるような描線,そこにはベートーヴェン的な苦悩やパッションは感じられない。本書に描かれていたように,50年代以降,数々の苦難を乗り越えてマンガを描き続けるなかで,手塚治虫のなかにベートーヴェン的な烈しさが培われていったのではないだろうか。
手塚治虫は,1989年2月9日,世を去った。ベートーヴェンを主人公にした『ルードウィヒ・B』をはじめ,『ネオ・ファウスト』『グリンゴ』『火の鳥』などが未完のまま遺されている。
